神戸学院大学

人文学部

地域研究センターとあかし市民図書館の共催で人文学部の用田元教授の講演会を開催しました

2025/10/16

講演する用田元教授
講演する用田元教授
用田元教授の話を聞く参加者
用田元教授の話を聞く参加者

地域研究センターとあかし市民図書館の共催で10月11日、「大蔵谷ヒューマンサイエンスカフェ」が同図書館で開催され、人文学部の用田政晴元教授の講演「五色塚古墳は畿内倭王権の関所か-旧播磨国東端と西端の前方後円墳の評価-」が行われました。

考古学、博物館学を専門とする用田元教授は、滋賀県立琵琶湖博物館の学芸員として長らく勤務し、2021年から本学人文学部で教鞭を執り、今年3月に退職しました。講演は自己紹介から始まり、参加者にもなじみ深い旧明石郡(神戸市垂水区、西区、明石市)の前方後円墳3基を中心に論を進めました。

用田元教授によれば、古墳は単なる墓ではなく、その形(墳形)と規模の組みあわせによって被葬者の権力・地位を階層的に表すという機能を持っており、統治地域のもっとも効果的な場所に築かれます。前方後円墳はそうした階層性の頂点に立つ墳形で、旧明石郡には白水瓢塚古墳(神戸市西区伊川谷町潤和)、五色塚古墳(神戸市垂水区五色山)、吉田王塚古墳(神戸市西区王塚台)という3基の代表的な前方後円墳(築造順)があります。

白水瓢塚古墳は4世紀初頭(第1四半期)の築造で、武具や鍬形石と呼ぶ腕飾りが出土していないことから、被葬者は女性であると考えられています。また、メスリ山古墳(奈良県)と墳形がよく似ているため、伊川流域出身の女性が奈良に嫁ぎ、死後、故郷に帰って葬られたのではないか(帰葬)という説があります。

五色塚古墳は4世紀中ごろ(第3四半期)の築造で、墳形は佐紀陵山古墳(奈良県)とよく似ています。このため佐紀陵山古墳の被葬者と親戚関係にある人物が、倭王権によってこの地に派遣され葬られたのではないかと考えられています。近年の研究により、近隣の舞子浜遺跡(集団墓地)で用いられた円筒埴輪の棺は、五色塚古墳に樹立された円筒埴輪と同じ産地・工房で作成されたものであることが判明しました。舞子浜遺跡の被葬者は耳の骨の特徴から海と関わりを持って生きた人々であると考えられているので、五色塚古墳の被葬者はそうした海人たちをも支配した人物である可能性が高いと思われます。

吉田王塚古墳は4世紀末の築造で、舎人姫王(用明天皇皇子当麻皇子の妃)を被葬者とする伝承があり、現在では陵墓参考地に指定されて宮内庁が管理しています。周囲に環濠が残り、現在でも水が湛えられているのが特徴ですが、陵墓参考地のため自由に立ち入ることはできません。

このように旧明石郡にある3基の前方後円墳は築造時期も異なり、それぞれ違った特徴を持っていますが、墳形が同じで葺石、円筒埴輪を検出している点では共通しています。用田元教授は「それらの性格をどのように考えるべきか、難しい問題ではあるが、誇大妄想ならぬ『古代妄想』として私の見方をご紹介したい」として、次の仮説を示しました。
(以下は用田元教授の仮説)
弥生時代から古墳時代にかけての古代山陽道の前身の街道は、摂津国境から内陸に迂回し、伊川谷を通って明石に抜けるルートではなかったかと想定されます。白水瓢塚古墳はその途上に築造された古墳であり、被葬者はこうした交通路と何らかの関わりを持つ人物であったのではないでしょうか。その際、特に注意すべきは太山寺の存在であり、寺院が築かれる前、この地に関のような施設があったと想定することも可能です。

古代山陽道前身街道は4世紀の半ばを過ぎるころ、海岸線をたどるルート、あるいは海上ルートに移行していったと思われます。五色塚古墳は明石海峡を望む要衝に位置し、またその被葬者は先に述べたように海人と深い関係を持つ人物であったと考えられています。五色塚古墳に葬られた人物は、こうした海際の交通路と何らかの関係を持っていたために、明石海峡という「関」のすぐ側に古墳を築いたのではないでしょうか。

吉田王塚古墳は、伊川谷ルートと海岸線をたどるルートが合流するあたりに位置しています。つまり陸路から水路へ、さらには陸路・水路を総合した交通路へ、という時代的な変化とともに、それぞれの要となる地域、言いかえれば「関」のような位置に前方後円墳が築かれたのではないでしょうか。

関の近辺に築造された古墳としては、不破関(岐阜県)にほど近い昼飯大塚古墳(4世紀末)という前方後円墳があり、逢坂関(滋賀県)にも膳所茶臼山古墳と呼ぶそれぞれ旧国を代表する規模の古墳があります。また播磨では旧飾磨、揖保郡に前方後円墳が多く、特に3世紀代には揖保川西側に南北に並んでいるという特徴があります。揖保川と古代山陽道が交わる陸上交通の要衝に築造された養久山1号墳、美作道が揖保川を渡る場所に築造された吉島古墳、そして水上交通にも関わりを持ち吉備の特徴を備えた権現山51号墳が存在します。

用田元教授は最後に「播磨では、揖保川沿いと、播磨・摂津国境付近に、畿内を中心とする倭王権と関係のある何らかのボーダーラインがあったようです。前者はおおむね3世紀代、後者はおおむね4世紀代のもので、東西照応して交通路の変化を示していると思われます」と述べ、講演を締めくくりました。

当日は定員30人の会場が満席になる盛況で、地域の皆さんや考古学、古代史ファンが詰めかけ、熱気にあふれました。2時間にわたる長丁場でしたが、図版、写真をふんだんに用いた見応えのあるスライドや実物資料(五色塚古墳の葺石と同じ淡路島東浦海岸で採取された斑糲岩)なども用いた分かりやすい講演内容に、聴衆の方々も時間を忘れ、古墳のロマンに惹きつけられていたようです。

神戸学院大学地域研究センターでは「大蔵谷ヒューマンサイエンスカフェ」と題して、一般向けの講演会を実施しており、「大学における研究成果を、分かりやすいかたちでひろく地域や社会に還元し、社会的な連携を深めてゆくことは、『地域と繫がる大学』神戸学院にとって非常に重要な意味を持つと考えています。今後とも地域研究センターの活動にご理解、ご協力をたまわれば幸いです」と関係スタッフは話しています。