人文学部の曽我部准教授が「大蔵谷ヒューマンサイエンスカフェ2025」の企画で講演しました
2025/11/26
地域研究センターの主催する「大蔵谷ヒューマンサイエンスカフェ2025」(末尾に※1)の一環として、11月19日に公開講演「中世の厳島参詣と瀬戸内交通 ―平氏一門の厳島信仰を中心に―」が明石ハウス(末尾に※2)で行われ、人文学部の曽我部愛准教授(日本史)が講師を務めました。講演要旨は以下の通りです。
≪厳島と平氏の結びつきは、平清盛が久安2(1146)年~保元元(1156)年、安芸守に任じられたところから始まったと思われます。『平家物語』のなかには、高野山で清盛が「厳島の社殿造営を行えば立身を遂げる」という夢告を授かったというエピソードが描かれており、「平家納経」の願文にも似た内容が記されています。また、厳島神主の佐伯景弘は清盛の安芸守在任中から関係を深め、平家の家人となっています。清盛は永暦元年(1160)以来、10回にわたり厳島に参詣し、官位昇進に合わせるように「平家納経」を制作させるなど、厳島と深い結びつきを持っていました。
平氏による厳島参詣のなかでも最も有名なのが、治承4(1180)年、譲位したばかりの高倉院が行った厳島御幸。このときの参詣ルートは京から淀川を下り、瀬戸内海へ出て海路を進むものであり、畿内近国の寺社への参詣が一般的だった院政期にあっては、群を抜いた遠距離の参詣でした。その背景には、福原(神戸市兵庫区)に別業(別荘)を構え、瀬戸内航路の整備に尽力した清盛の存在があることは言うまでもありません。
高倉院の厳島御幸については、近臣・源通親が執筆した『高倉院厳島御幸記』という史料が残っています。それによれば3月19日(旧暦)、京を出発した一行は淀川を船で下り、寺江山荘(尼崎市)に宿泊した模様です。19日夜には清盛が遣わした「唐の船」(宋船)が寺江山荘に出向き、高倉院はこれに乗船して大阪湾遊覧を楽しみました。翌日は天候悪化のため陸路で福原に赴き、清盛の歓待を受けます。また、その夜は厳島の内侍8人が舞を奉仕したことが記録に残っています。翌21日には須磨、印南野、明石の浦、高砂など播磨の名所を巡覧しながら西進。高倉院は陸路を取ったようですが、清盛は宋船に座乗し、高砂以降は高倉院も同乗し、26日正午に宮島に到着しました。
このように、高倉院の厳島御幸は清盛や平氏一門の差配、同行によって実現したものであり、高倉院と平氏の共同事業とでも呼ぶべき参詣でした。高倉院は安徳天皇に譲位した直後、この御幸を実施していますが、通常は参詣先として石清水八幡宮や賀茂社が多く選ばれました。あえて厳島を選んだ背景には、厳島を「高倉院―安徳天皇」皇統の新たな宗廟として位置づけようとする意図があったのではないでしょうか。平氏の血を引く新たな天皇が誕生したことを告げるパフォーマンスとして、厳島御幸は決行されました。皇統の交代が起こると、新たに皇位についた天皇は自身の正統性を主張する必要が生じます。高倉院の厳島御幸は単に宗教面だけでなく、皇統の正統性という政治的な側面から考えることも可能ではないでしょうか。≫
曽我部准教授は講演のなかで、明石に平氏関連の史跡(両馬川、忠度塚、腕塚神社、経正の馬塚、善楽寺の清盛五輪塔)が多いことを紹介し、「平氏一門と明石の関係をうかがわせる史跡が多く、なかには歴史上の事実として疑問符をつけざるをえないものもあるが、清盛が整備した瀬戸内海航路に明石市域が含まれることと関係があるのではないか」と指摘しました。
講演後は、中世における信仰のあり方や皇統の断絶・交代に関し、質疑応答が行われ、熱心な議論が交わされました。多くの方にご参加いただき、「人文知を地域に公開し、還元する」という地域研究センターの目標にふさわしい有意義な講演になりました。
地域研究センターでは「今後も、センター及び人文学部教員を講師とした公開講座を継続的に開催してゆくことを計画しています」としています。
※1 大蔵谷ヒューマンサイエンスカフェは、地域研究センターが主催する一般向け公開講演会です。幅広い分野にわたる人文学の知を地域社会に向けて公開・還元し、双方向的な学術交流を実施することを目的としています。
※2 明石ハウスは地域研究センターが活動拠点として利用している明石市内の古民家(明石市都市景観形成重要建築物指定)です。大蔵谷ヒューマンサイエンスカフェのような公開講座のほか、地域の古写真を利用した写真展、一般向けのワークショップ等、地域連携・地域研究のための活動を実施しています。
※地域研究センターのウェブサイトでもこのイベントに関する記事をご覧いただけます。

