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神戸学院大学の研究最前線
植民地時代の台湾へ沖縄から渡った人々を追跡した研究書を2カ国語で出版
松田 ヒロ子 現代社会学部准教授
 戦前、沖縄から植民地時代の台湾へ渡った人々の生活史を当事者や子孫へのインタビューと文献調査からまとめ、東アジアの歴史の中で捉え直した学術書が注目されています。著者は現代社会学部の松田ヒロ子准教授(専門は社会史、歴史社会学)。3月末に『沖縄の植民地的近代――台湾へ渡った人びとの帝国主義的キャリア』を世界思想社から出版しました。ハワイ大学出版会から2019年に刊行した英文のLiminality of the Japanese Empire: Border Crossings from Okinawa to Colonial Taiwan(日本帝国のリミナリティ――沖縄から植民地台湾への越境)はオーストラリアのアジア研究学会が「Early Career Book Prize」で高く評価しました。日本語版は英書をもとに再構成し、沖縄から台湾への人の流れを追跡して知られざる近代史を浮かび上がらせました。松田准教授に研究の意図や著書の読みどころについて聞きました。【聞き手は広報部】
松田先生

「沖縄の植民地的近代」を浮き彫りに

 広報部 地図を見れば沖縄と台湾の近さは一目瞭然。旧日本帝国の「辺境」にあった「沖縄(八重山・宮古諸島などを含む)」の人々を視点の中心に据え、台湾への「移民」を追いかけた本書。台湾は出稼ぎ先であると同時に買い物や進学などでしばしば往来していたことも重要です。日本統治期の台湾に1年以上居住した人の中から、訪ね当ててインタビューを録音したのが44人。移民と言えば、南米、ハワイ、中国東北部(旧満州)、フィリピンや南洋諸島がすぐ思い浮かび、植民地時代の台湾へ渡った人々のことはあまり注目されて来ませんでした。(注1)研究のきっかけは何ですか。
 松田准教授 沖縄の近代史研究でもっとも研究が蓄積されているのは1879年の「琉球処分」(注2)とアジア・太平洋戦争の悲劇「沖縄戦」(注3)。それ以外のテーマは研究があまり進んでいません。戦時中に多くの歴史資料が焼失したことがその背景にあります。オーストラリア国立大学の博士課程に在籍中、初めて沖縄県八重山諸島の石垣島を訪れたとき、図書館で『八重山新報』など戦前に刊行されたローカルな新聞がきちんと保管されていることに驚きました。沖縄本島とは異なり地上戦がなかったこともあるのですが、八重山では戦前から郷土史研究が盛んで歴史資料を大切にする土壌があります。新聞を読んでみると、台湾についての記事が多く、台湾の会社や商店の広告が多数掲載されていました。とても興味深く、八重山諸島を含む沖縄県の人々がどうやって台湾に渡り、植民地で生活し、終戦後に引き揚げてきたのかを掘り下げて調べたいと思いました。

 注1) 本書で紹介されている外務省調査局の資料によると、1940年時点の沖縄系移民の滞在国は南洋諸島4万9,772人、ブラジル1万6,287人に次いで、台湾1万4,695人が多い。
 注2) 明治政府による沖縄の廃藩置県のこと。琉球藩は廃止されて沖縄県が設置された。
 注3) 1945年3月下旬、沖縄諸島に上陸した米英を中心とする連合軍と日本軍との戦い。多くの住民が犠牲になり、日本側の死者は18万人を超えるとされる。このうち沖縄県民は9万4,000人以上の民間人を含め12万人以上と県は推計している。

琉球漁民慰霊碑

沖縄県出身でも標準日本語を話した人たち

 広報部 台湾北部の基隆市内にある公園に「琉球漁民慰霊碑」が建立されたことも紹介されました。台湾では沖縄系移民は漁業関係者の印象が強いものの、実際には商店などで働いた人の方が多かったと、職業の幅の広がりも書かれていました。インタビューされた44人は沖縄本島や八重山諸島などに散らばり、誕生年は1908年~1939年ですから亡くなった方も多数おられるはず。方言が強くて、聞き取りに苦労があったのではないですか。
 松田准教授 私に対しては方言を使うことはなかったのでその点は問題ありませんでした。本にも書いたのですが、植民地台湾では、沖縄県出身者も標準日本語を話して生活していました。本土からの日本人に交じって各地で暮らしておられましたから、差別されないように沖縄出身であることを隠して暮らしていた人も少なくありませんでした。
 広報部 著書によると、農業以外に仕事がほとんどなかった戦前の沖縄から植民地の台湾へ移住した人々は台湾総督府の役人や鉄道会社に就職するなど、「帝国主義的キャリア形成」を図ったとあります。そしてその経験は、「ジェンダー化」していたと書かれています。「ジェンダー化」とは、選択の余地があった男性に比べて女性の職業が「お手伝い」(当時は「女中」と呼んでいた)などに限られていたことを指しているのですか。
 松田准教授 確かに女性と男性では職業選択の幅に違いがありました。ただし植民地台湾での就職の意義は、経済的な観点からだけでは理解できません。日本本土出身者の間で生活することを通して、標準日本語や日本的なマナーを身につけるといったことも重要だったのです。本書で私は、植民地台湾で生活することが象徴的地位の上昇につながったことを指摘しました。それは男性よりも女性にとって大きな意味を持っていたと考えられます。

book写真

沖縄の近現代史 台湾との関係も重要

 広報部 沖縄は日本帝国の「辺境」であって、台湾から見れば沖縄からの移住者も「支配者」。沖縄の中学校を卒業して医師を目指す人の多くが台湾へ行ったということも分かりました。
 松田准教授 沖縄県と台湾の医学校の発展の違いは帝国日本における両者のポジションを象徴しています。本にも書きましたが、沖縄県病院付属医生教習所が1912年に廃止され、沖縄には医師になるための学校はなくなりました。日本本土で進学する経済的余裕のない若者たちが植民地台湾に向かったのです。そして、台湾の医学校を卒業した人たちが戦後、沖縄に帰って医療を支えたのです。
 広報部 戦争中、台湾にいた人々が、悲惨な沖縄戦を体験してなかったことがずっと「ひけ目」になっていたことも強調されていました。ほかに訴えたかったことは何ですか。
 松田准教授 これまで沖縄の近代史は、日本本土との関係においてのみ語られることが多かったように思います。しかしながら、沖縄の近現代史を理解するためには日本の植民地支配、特に台湾との関係が極めて重要であることを多くの方に知っていただきたいです。

デジタル人文学プロジェクトにも参加

 広報部 研究は英語と日本語で書かれ、英書はオーストラリアのアジア研究学会が初の単著を著した若手研究者を対象にした「Early Career Book Prize」で「審査員特別賞」に相当する賞「Highly commendation」(高く評価)に挙げ、「個人のライフストーリーと帝国史という異なるスケールの歴史を見事に統合し分析していることが印象深く、筆者の口述史と英語、日本語、中国語の文書資料を併せて歴史分析する能力に感銘を受けた」と賞賛しています。この研究を深化させる新たな展開がありますか。
 松田准教授 米国ノースカロライナ州立大学のデイヴィッド・アンバランス歴史学部教授とカリフォルニア大学サンタ・バーバラ校のケイト・マクドナルド歴史学部准教授が主宰し、オンラインで公開する予定のデジタル人文学プロジェクト「Bodies and Structures 2.0 Deep-Mapping Modern East Asian History」に参加し、今回の研究の一部をデジタル・コンテンツとして近く掲載していただけると聞いています。今後は沖縄県出身者だけでなく台湾の人々の日本植民地経験に着目した研究に取り組みたいです。今は特に日本軍人・軍属として戦場に送られた台湾の人々に関心を持っています。

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