大学生活入門2021
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その当時は女性が自活する道もなく、大変な苦労が待ち受けていたと思われます。女性が自立して生きることなど想定されていない時代であり、否応なく再婚するか、子どもを養子や里子に出す形で手放すことも少なくなかったそうです。■■■■年代(明治■■年代)は小学校の就学率が向上し、小学校を卒業した子どもがさらに学ぶことのできる高等小学校などが次々と作られていました。また、女子向けの裁縫学校なども各地に設けられ始めていました。わさ先生はそのような時代の流れも考えられたのだと思われます。学校法人神戸学院の歴史は、■■■■年(明治■■年)に森茂樹先生の母である森わさ先生が創立した「私立森裁縫女学校」から始まります。校祖森わさ先生は、それまでの自身の生き方から、自立した精神を持った女性を育てたいと思い、その考えを実現するために学校を設立しました。森わさ先生について紹介します。わさ先生は■■■■年(慶応■年)に淡路島で生まれました。成長ののち、わさ先生は■■■■年(明治■■年)に結婚し、■■■■年(明治■■年)■月に長女登志得(のちの短期大学の初代学長)、■■■■年(明治■■年)■■月に次女四津野が生まれ、子育てと家事に明け暮れる生活をしていました。しかし、■■■■年(明治■■年)■月末に夫の新太郎が、わさ先生と幼い娘■人を残して病死してしまいます。しかも、わさ先生のお腹には新しい命が育っていました。その悲しみの中、夫の死からわずか■か月のちの■月■■日に長男として、森茂樹先生が誕生したのです。わさ先生は、■人の子どもたちとこの先どのように生きていくかという苦難に直面しました。自立して生きることを選んだわさ先生は、教師になることを決心し、幼子を含む■人の子どもを実家に預け単身で上京し、東京の裁縫学校で学ぶことにしました。その当時、神戸〜東京間は急行で■■時間もかかったそうです。末っ子の茂樹は当時■〜■歳であり、その子らを残して見知らぬ土地で学ぶことは相当な覚悟があってのことだったと思います。淡路島に戻ってからも裁縫教師を目指してさらに勉学を続け、■■■■年(明治■■年)に念願の教師の免許を得て働き始めました。勉学に励むわさに寄り添う森わさ先生■人の子どもたち7大学生活入門

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