大学生活入門2021
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10単科大学に附置研究所を持つような前例はなかったそうですが、茂樹先生は粘り強く交渉し、その結果、熊本県議会をも動かして県からの予算を獲得し、国に認めさせたそうです。茂樹先生はその研究所の体質病理部の初代主任教授に就任しましたが、京都帝国大学から招へいされ、■■■■年(昭和■■年)■月には医学部病理学病理解剖学第■講座の教授として再び京都に戻りました。その頃は第二次世界大戦が始まっており、研究者にとって研究どころではない時代になっていたと思われます。茂樹先生は体調が良くない中、研究を続け病理学教室を守っていました。■■■■年(昭和■■年)■月■日には広島に、続いて■月■日には長崎に新型爆弾が投下されました。この時、京都大学からいち早く研究者たちが広島に調査に入り、新型爆弾が原子爆弾であると突き止めていました。その後、広島で被害を受けた人々の治療と調査のために、さらに人員を送り込んでいます。茂樹先生は、この後の第二次調査団として広島に向かいました。終戦を迎える頃、わさ先生の個人経営であった学校を財団法人化し、■■■■年(昭和■■年)■月に財団法人神戸市森高等学校となりました。その年の■■月にわさ先生の後を継いで長女の山西登志得先生が校長に就任しました。山西登志得先生と山西助一理事は、戦後の教育改革に応じて、学校をさらに発展させていきました。創立■■周年を迎えた■■■■年(昭和■■年)■月には神戸森女子短期大学を開学させました。翌年■■■■年(昭和■■年)■■月■■日に、わさ先生は■■歳で静かに息を引き取りました。熊本医科大学体質医学研究所京都大学医学部資料館(当時の解剖学講堂)

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