法人の原点・創立の理念フロントライン

学校法人神戸学院 創立100周年記念座談会

「報恩感謝・自治勤労」をスローガンに
校祖・森わさが目指した社会に役立つ人材の育成

神戸学院大学企画部長 岡田 悦夫(司会)
神戸学院大学企画部長
岡田 悦夫(司会)

司会 本日は100周年を迎える学校法人神戸学院の歩みを振り返り、改めてその原点を確認した上で、次なる時代に向けての展望を語り合っていただきます。まず、法人の原点、創立の理念ということで、1912年(明治45年)の私立森裁縫女学校の設立から1948年(昭和23年)の新制高等学校の開学にいたる時期、校祖である森わさ先生を駆り立てたものとはどういうものだったのでしょうか。溝口理事長からお話しいただきたいと思います。

学校法人神戸学院理事長 溝口 史郎
学校法人神戸学院理事長
溝口 史郎

溝口 森わさ女史は、若い時に大変な苦労をなさっておられるんです。結婚され、長女が生まれ、次女が生まれ、三番目の子どもをお腹に宿しているときに、ご主人が病気で急逝されたんです。二人の子どもとお腹の赤ん坊、それに義母を抱えて未亡人になってしまったわけです。やがて生まれた三番目の子が男の子で、本大学の創設者である森茂樹だったんですが、家族をなんとか食わせていかなきゃならんということで、わさ女史は一念発起したんです。三人の子どもを叔父の家に預けまして、自分は教員資格を取るために、淡路島から本土へ渡ってきたんですね。教員養成所に入って、裁縫の先生の免許を取りました。そして淡路島に帰って、村の小学校というか、寺子屋みたいなところですね、そこで臨時雇いの教師みたいなことをしていたわけですが、それではまだ足りん、もうひと頑張りしないといけないということで、五反か六反あったらしい田畑を処分して神戸へ出てきました。本式の勉強をして、上位の教員免許を取ったあと、さらに東京まで行きまして、もっと上の免許も取ったんですね。その上で神戸に戻って夜学校(後の兵庫女学校)に奉職したわけです。

法人の開祖である森わさ先生(1915年 47歳)
法人の開祖である森わさ先生
(1915年 47歳)

その後に義母がなくなりまして、子ども三人を抱えての、森わさの奮闘が始まったわけです。当時のことですから、寺子屋に毛の生えたようなところだったわけですが、教職に励んでおるうちに転機がまいりました。勤めておった女学校の校長が代わられたんですね。森わさは、自分が大変な苦難に遭っていますから、女が一人で子どもを育て、家を維持していくということがどれだけ大変かということを身をもって知っておりました。女だからといって、なにも手に技術がないということでは生きていけないということを、痛感しておりました。そんな彼女に対して、新しく代わってこられた校長さんが、教育には教育勅語と武士道さえあればそれでいいのだ、というような方針の方だったらしいんです。それで彼女は困ったわけです。森わさとしては、やっぱり何か心の拠り所がほしい、いわゆる倫理道徳だけでは満足できない。それで、宗教に目が向いたわけですね。そして、まず最初はキリスト教に入信しました。たまたま近所に大学を出たばかりの牧師さんが来られて、説教もお上手でしたから、それに惹かれていったんでしょう。そのうちに、今度はその牧師さんが東京に行ってしまうんです。不思議なことに、その人はキリスト教の牧師であったんですけども、一燈園を創立した西田天香さんを彼女に紹介したんです。森わさは西田天香さんに会って、「無一物・懺悔(ざんげ)の生活」ということに共鳴するんですね。西田さんのところへ絶えず通うようになる。懺悔の生活、奉仕生活にも参加しています。

艱難(かんなん)にくじけず自活していける女性を育てること

私立森裁縫女学校速成科第1回卒業生 (1912年 10月)
私立森裁縫女学校速成科第1回卒業生
(1912年10月)

そして森わさがちょうど40歳のときですね、子女の教育には武士道と教育勅語さえあればよい、というのに飽き足らず、なんとか自分で精神的なバックボーンをもった女性を育てたいということで、独立を決断したわけです。たまたま平野(神戸市兵庫区)に手ごろな家があったのでそれを借りまして、皆さんご承知のように、たった7人か8人の生徒をもって、1912年(明治45年)、森裁縫女学校が発足したわけです。これが本学、本法人の発祥なんですが、そのときに森わさは、今も繰り返し申しましたけれど、自分の苦難からしてですね、たとえ女であっても何かあったときには自力で生活できて、子どもたちをちゃんと育てることのできるものを身に付けておかなければいけないということ、それからもう一つは、どんな艱難に遭ってもくじけずに、しかも社会に対して奉仕する、役に立つ人材でなければならない、ということに固い信念をもったようです。それで、発足当初の学校の基本方針も「報恩感謝・自治勤労」という、当時としてはとてつもないスローガンを掲げたわけですね。腹の据わった女、社会に役立つ人物を養成するのがこの学校の眼目だという方針を立てたわけですね。

そして、森わさにはこの平野の校舎において、彼女にとって第三の、そして決定的な精神的転機が訪れました。それは学校のすぐ近くにある臨済宗妙心寺派の専門道場である祥福寺の師家 碧層軒愚渓(へきそうけん・ぐけい) 老師との出会いでありました。祥福寺では老師の指導の下で若い雲水たちが日夜極めて簡素な規則正しい修行を行っております。わさは愚渓老師に参禅を許されて親しく指導を受け、雲水たちの毎日の修行を目の当たりにして、これこそ自分が求めていた教育の原点であり、全てであると実感したのであります。そして女学校の教育の中に座禅を取り入れ、常に自分の足元を反省するという「照顧脚下(しょうこきゃっか)」の標札を学校の玄関に置いて、自ら率先してこれを実践しました。

そうしてスタートしたわけですが、彼女一人ではどうにもならないということで、長女の登志得と、登志得と結婚した山西助一夫婦の援助によって、学校経営のさまざまな事務的なことは娘婿の山西助一に任せて、自分はもう、ただひたすら教育に没頭するということをやったわけです。それが次第に、平野のあたりの人びとの共感と同情を得まして、順調に生徒の数が伸びていったようです。面白いのはですね、森わさは、そういう風にがむしゃらに突っ走っていたんですけれど、それを下支えした山西助一は、学校経営が嫌でしかたがなかったというんです。金ばっかり食うと(笑)。なにかといえばお金、お金でね。もうこりごりやといいながら、だけど見捨てるわけにもいかない。自分の妻が母親を助けて教諭として働いていますからね。

当時の記録があるんですけど、毎年毎年会計報告が出るんですね。それが赤字なんです。そして毎年のように、「この赤字は設置者において負担」と書いてあるんです。ということは、法人が払ったわけですね。生徒の父母にお金を出してくれとは言わずに、自分たちで工面した。そのために何をしたかというと、平野のあたりの有力者が薦めてくれて頼母子講(たのもしこう)を始めたんです。山西が「頼母子講なんて、そんな危ないこと、わしゃようせん」といいましたらですね、薦めてくれた有力者が、それはやり方次第やと、いろいろ助言してあげるからということで始めまして、これはかなり長い間続いたようですよ。終戦後もその証書を持っている人が出てきまして、私もそれを見たことがありますけども。そういうことで、山西助一はとにかく下支えを、必死にやってきたわけです。それに支えられて森わさと長女の山西登志得が、学校長と中心になる教諭として、やってきたわけです。

日本の将来を見据えた森茂樹の決意

設立50周年ならびに短大学舎落成記念式典 1961年1月
設立50周年ならびに短大学舎落成
記念式典(1961年1月)

私は、1952年(昭和27年)11月に森茂樹の娘彩子と結婚しました。それにより森一族との関係ができたわけです。その辺りの時代の記録を見てみますと、1961年(昭和36年)1月に創立50周年ならびに短期大学学舎落成記念式典というのが開かれておりますが、このときに私も一族の一人として参列しています。私の義父にあたります森茂樹は、京都大学の医学部を定年退官しまして、当時63歳ですが、1年ほど関西医科大学の非常勤講師をした後、山口医科大学の学長に招聘されて行きました。2期8年をそこで過ごしまして、山口医科大学、神戸医科大学、そして岐阜医科大学の3つの県立医科大学を一緒に国立にしたんです。それをやり遂げて神戸へ帰ってきました。ですから私ども身内としては、もうこれでお父さんも、おとなしく家におってくれるだろうと思っていましたらなんのことはない(笑)、大学を作ると言い出したんですね。

森茂樹は若い時にポーランド経由でドイツに留学しておりまして、その折に、日本人の体格がヨーロッパ人に比べて著しく見劣りがするということに、強いコンプレックスを感じていたらしいんです。そこでこれは食べ物のせいだと、体質を改善する鍵は栄養学だと考えたわけです。当時、山西助一のもとで女子高等学校と女子短期大学が順調に運営されておったわけですが、森茂樹はこれからの日本には、高い教育を受けた青年男女の力が必要だと、男女共学で4年制の大学を作るという強い決意を持っておったわけです。そのころ私は、神戸医科大学へ単身赴任で来ておりまして、山西夫妻がときどき私を晩飯に呼んでくれるんですよ。そんなとき、山西夫妻から毎回いわれたのがですね、「お前のお父さん、金もないのに、大学を作る大学を作ると、そればっかり言うてる」と呆れておったですね(笑)。

1952年に開学した神戸学院女子短期大学(短大・高校共用校舎)
1952年に開学した神戸学院女子短期大学(短大・高校共用校舎)

そんなことで、とにかく4年制の、しかも栄養学あるいは体質学を専攻する大学を作りたいという森茂樹にとうとう山西が根負けして、なんとかお金を出してくれそうだというので、みんなでこの土地(有瀬キャンパス)を見に来て購入したんですね。そのときに、たいへんお世話になったのが中野文門さんです。中野さんは兵庫県選出の参議院議員で、当時は文部政務次官をやっておられました。文部省との折衝とか、購入した土地の転用の手続きなどにも力を貸していただいて、入学定員100人の栄養学部だけの単科大学として神戸学院大学が発足したわけです。

その後のあゆみについてのお話は皆さんにお任せしますが、もう一つ言っておかねばならないのは、短期大学を作るときに、男女共学にしたらどうかという意見が出たんです。そのとき、森わさは「この学校は女子教育にまい進する学校だ」と言って、それを拒否したんですね。いまでこそ女性も強くなりまして、男の方がオロオロしなきゃならん場面もありますけど(笑)、当時としては随分と、腹の据わった教育をしたんですね。

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